「無力な者を選ばれる」 06.08.19
コリント I 1:26〜31
須賀
工 神学生
キリスト者には、いつも神によって召された時を思い起こす時が
与えられている。それは、過去に縛られ、過去に固執する事では
なく、今、自分が赦され、生かされている事、神によって召されて
いる事を深く見つめながら、神の選びがいかに素晴らしいもので
あるかをあらためて感じる事の出来る時である。
パウロは、コリントの召された人々に「神によって召された時を
思い起こすよう」に呼びかける。コリントの人々にとって、それほど
辛い事はない。出来るならば、忘れたい過去なのである。
なぜなら、人間的に見て、知恵がある者、能力のある者が多かった
わけではないから。決して、誇る事が出来ない過去だからこそ、
思い起こす事はしたくはない。しかし、パウロは、「召された時」を
思い起こせと言っている。
それは、辛い事や悲しい事ではなく、神によって導かれ、喜びに
満たされた「あの時」を思い起こせと語るのである。
キリスト者の歩みは、無力では終わらない。コリントの人々がそうで
あったように、神は、無力の者を選ばれたのである。ここに神の選びの
正しさがあり、憐れみがある。「無力な者」それは、神の御前に立たされた、
全ての罪深い人間の姿。しかし、神は、御子を送り、十字架へと向かわせ、
無力な人間を救い、神の選びの内に入れてくださる。私達は、この救いの
御業を通して、神の選びの内に生かされ、一つとなって神を喜びに
満たされて賛美する者とされている。
信仰者の歩みは、正に「しかし」という逆説から始まろうとしている。
かつて、罪人であった人間。神の前では、無力な人間。
「しかし」神は、そのような人間でさえも、愛し、救いの御業を
行われたのである。
私達は、この神の選びの素晴らしさを常に思い起こし、人間の力を
誇るのではなく、神の素晴らしい選びの御業の内に、神を誇り、喜びに
満たされた歩みへと招かれているのである。